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March 2132004

 観光の玉のよそほひ春日傘

                           竹下竹人

田蛇笏が主宰誌「雲母」において、「これはまた手練れたる新鋭抜群の眩さである」と激賞した句だ。句意については明瞭なので、とくに解説は施されていない。だが私は、なんだか妙な句だなあと何度か読み直しては考え込んでしまった。さらりと解釈すれば、観光旅行中の「玉のよそほひ」をした女性に、ちょっと小粋な「春日傘」を持たせて、さながら一幅の絵から抜け出たような美女の讃ということになろうか。考え込んだのは、女性は観光旅行の途次なのだから、着飾りはしても「玉のよそほひ」とは、かなりの形容過多、大袈裟にすぎると感じたからだった。「金襴緞子の帯しめながら」ほどではないにしても、身軽さの必要な観光客にしてはどうにも印象が重すぎてかなわない。どこが「抜群の眩さ」なのかと、しばしまじまじと句を眺めることになったのである。蛇笏の鑑賞は戦後のものだから、昔のどこぞのお姫様あたりを詠んだ句でないことは、それこそ明瞭だ。しかし、どう読んでみてもしっくりと来ない。腑に落ちない。よほど採り上げるのを止めようかとしたときに、ひょっとしたらという思いから、手元の国語の辞書に手が伸びた。「観光」という言葉には、また別な意味があるのかもしれないと、念のために当該項目を引いてみたのである。とたんに「あっ」と声を上げそうになった。あったのだ、まったく別の意味が……。すなわち「観光」とは「観光繻子(かんこうじゅす)」の略であり、「絹・綿を織りまぜた繻子で、光沢をつけて唐繻子を模したもの。群馬県桐生の名産。東京浅草の観光社が委託販売をしたところからの名」なのだそうだ。白秋に「金の入り日に繻子の黒」という有名な詩があるが、あの繻子の一種というわけだった。となれば、句はすとんと腑に落ちる。なるほど、眩いばかりである。わかってみれば馬鹿みたいな話だけれど、俳句を読むときにはたまにこうしたことが起きる。やれやれ、である。飯田蛇笏『続・現代俳句の批判と鑑賞』(1954)所載。(清水哲男)




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